イロマチディープ・チャイナ

裏風俗、心霊スポット、憩いのバーなど、中国のディープスポットをご紹介。中国の釣り情報やコラムも書きます。

失われた世界を求めて。ドラゴンボールは「政治家」孫悟空の物語だった

人類の起源はどこだろう。

人類の起源を巡っては、北京原人ジャワ原人ネアンデルタール人が各地で現在のヒトになっていったという説と、アフリカから世界へ向かったグループが現生人類の祖となったという説があるようだ。とはいえ、いずれの説もアフリカから出て世界へ向かったグループが我々の先祖となったという点では共通しているらしい。我々は、アフリカから出て世界で土着した。そうして長い歴史の中で、民族や言語の違いを生み出していった。

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*あの頃の僕たち。「出アフリカ」以前だ。

我々は、元は一つなのだ。同族・同先祖の遺伝子を持った種族だのに、どうしてこうも争い、どうしてこうも誤解し合っているのだろうか。

私がこう言うのは、有史以来、社会問題がなかった時代は古今東西のどこにも存在しないからだ。社会問題とは「普遍化可能性」の観点から、問題性を見出し得る事象のことだと本稿では定義しておきたい。

普遍化可能性とは、「同様の状況にあれば、他の人も同じ行動をする」という意味で使っている。即ち、「AがA+をすることは問題ないし、そう行動して然るべきだ」という「是認」が、世界中の人々の間に須らく適応されて納得されている状態のことだ

世界の全てがそうした「普遍的事実」によって構成されているならば、社会問題は生まれていないはずだ(トートロジーだが)。だが、社会問題は実際に起きている。そのため、社会変革はいつの時代も止むことが無かったのだ。そうした運動は「普遍的でない」とみなした社会問題に向けられる。

そうした社会問題が無い世界とは即ち、全ての人々に「違和感」がない(≒満足した)状況を指すと考えていいだろう。そうした状況は変革の終着点であり、社会変革が収まる理由は現実が「普遍的になった」からだ。そのため、普遍化可能性に世界が覆われる≒社会問題がない世界こそが、我々の理想の社会だと言っていいと思う。

これが、私の考える社会問題というものの本質的構造だ。

 

僕らが普遍化出来ない世界観を持ってしまった理由

それでは、何故、我々はその理想社会を創造することが出来ないのか。それは、我々が自らの環境によってしか世界を判断することが出来ず、従って視野狭窄であり、自らの小さな経験と知恵を後生大事に真理として胸に抱いて生きているからだ。

階級が分化し、暮らしている環境がそれぞれに異なるにつれて、自らが日常的に触れる物事がそれぞれに違うものになってくる。環境に応じて自らのエゴを図ることを目的として都合の良いことを主張するのみならず、それを人々は「真理」だと信じ込んでしまうのだ。そうしたことが原因して、世界には問題と矛盾が蓄積されているのだと思う。

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世界はそうして常にバラバラだ。

階級が出来てからの民族集団内部でもそうだし、世界各地に散った民族集団ごとにも当然に人々の世界観(価値観や思考)は異なっている。それだから、人々は互いに異なった世界観を押しつけ合って、社会問題が生まれてしまう。あらゆる社会問題が生まれる背景には、こうした構図があると私は思う。

では、世界が「普遍性」にのみ溢れ、理想的であった社会はあったのだろうか?

私はあったのだと思う。

それは原始共産制」が敷かれていた「出アフリカ前」だ。身分や階級の違いが存在せず、人種という違いも無かった。毎日が生存するのに命を賭けた暮らしであったから、人間同士が命を繋ぐため、協力してお互いに「是認」の下で暮らしていたのではないだろうか。

そこには、人間が作り上げた社会上の問題は発生していなかった。何故なら、階級・職業が分化していないため、集団ごとの構成員が所与とする環境はほぼ同一であり、他の野獣に対し、集団生活を武器として狩猟生活を送る人間は、互いに慈しみ合うことが必然的に求められていたと推察出来るからだ。

そのため、自然環境を原因とした苦悩や危険は多かったろうが、社会構造を理由とした人間同士の争いは無かった。だから、「出アフリカ前」は人類にとって理想的な時代であったと私は思うのである。特に、その融和・友好的社会環境についてそう考える。

だが、私は原始共産制を復活させようと図るポル・ポト派の怪しい一味ではない。読者諸兄姉らは、その点は安心して最後まで読み続けて頂きたい。

 

「出アフリカ」とドラゴンボール

さて、ドラゴンボールとは、言わずと知れた鳥山明先生の描いた国民的少年漫画・アニメだ。私はドラゴンボールを見て少年時代を過ごしていた。ドラゴンボールドラゴンボールZ、ドラゴンボールGTと三つのドラゴンボールがあるが、私は全て見終えた。

私が成長するにつれて悟空も成長した。とはいえ、成長のスピードは彼の方が早い。私が童貞を嘆いている内、彼は既に美人の妻を持って「リア充」していた。

ドラゴンボールGTが最終話を迎えて、悟空がシェンロン(神龍)に乗って天空世界に行ってしまった時は涙がこぼれたのを思い出す。恐らく、幼い頃から一緒だったドラゴンボールというアニメが「終わった」ことで、私の過去が一区切りついたような気分になったからだと思う。

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私にとってそんな意義あるドラゴンボールのストーリーは、「七つのドラゴンボールを集めたら一つだけ願いが叶う」と聞いた悟空が、仲間と一緒に世界を旅するというものだ。

そう書くと、勇気・友情を語る少年漫画の典型だが、「ドラゴンボール」という物語と主人公の孫悟空という一人の男の物語は、もっと違った意味で浪漫に溢れている。この物語は、「失われた世界」を探す旅にも思われるからだ。

我々人類は前述の通り、「出アフリカ」以降、国内での階級分化と世界各地の民族集団・国家への分断を理由として、世界観を異にしてしまっている。それは、「もともとは一つであったはず」だと思いを致せば、お互いに対する無知・誤解は「人類の倫理的欠落なのだ」と言い得ることだろう。

人類は「出アフリカ」以後、発展と引き換えに社会構造は複雑化して領域的にも疎遠になり、他者のことを他者の立場で思いやり、慈しみ合うことが出来ていない。そうして戦争も生じるし、謂われなき誹謗中傷を投げかけられたりもする。偏見と自己中心主義がその原因だ。それは「人類の汚点」だとも言うことが出来るだろう。

そして、それがドラゴンボールという国民的アニメのメイン・テーマであると私は思う。

 

物語「ドラゴンボール」がロマンチックで倫理的な理由

さて、ドラゴンボールのストーリーについて、私の持論と解釈を述べてみたい。

ドラゴンボールはどうして「七つ」なのだろうか。

それは、七つの大陸(≒世界)の数を表しているからだ。この物語は「散らばってしまった世界を集める」というロマンスを語っているのだ。その世界とは、現在の「出アフリカ」以降の人類だ。元は一つであったはずの人類を一つに拾い集めて、世界を普遍化せんとする志を持った熱い男が悟空なのだ。悟空とは、このように「意識が高い」キャラクター設定がされている。

・七つのドラゴンボールを集めると願いが叶うとはどういうことなのか。ドラゴンボールという物語で語られる「願い」とはどのようなものを念頭に置いているのか。

それは、人類を一つに戻すということだ。人類を一つに戻すとは、全ての人々が全ての人々の立場を我が物として考えることが出来るようになるということだ。そうした結果、世界を普遍的に再構成し、世界の問題を解決することが出来るからだ。

だから、ドラゴンボールという物語は、情報・環境の非対称性を超えて、全ての人々のリアルの把握へと向かう旅だとも言い得ると思う。そのため、ドラゴンボールで語られるところの願いとは、物欲的欲求を叶えるということでは断じてない。

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だから、ウーロンはシェンロンに「ギャルのパンティーおくれ」と言った(ドラゴンボール、12話)のである。

どれだけ苦労しても、成果はパンティーだ。ギャルのパンティーに大した価値がないのは言うまでもない。即ち、物欲的欲求が示すところの成果を笑っているのだ。七つのドラゴンボールを集めるところの本当の「志」は別にある。それが悟空とトレジャー・ハンターとの違いだ。トレジャー・ハンターは財宝を探すが、それを自らの欲求の対象へ転化させることを狙っているという意味で、ただのエゴでしかない。

即ち、そうした欲求を叶えるために七つのドラゴンボールを集めるという訳ではなく(一応、そうした設定がされていても)、七つのドラゴンボール(大陸)を手に入れる(知悉する)ということがドラゴンボールの世界では重要なのだ。そして、それを一つにするということは、人類の失われた世界を取り戻すということなのだと私は思う。

 

異文化とぶつかり、圧倒的成長を成し遂げる孫悟空

そうして、フリーザべジータ、ピッコロなどの異星人(怪物)とも悟空は戦ったりするわけだが、彼らは異なった民族集団・国家を表現していると言い得るだろう。

文化を一つ跨ぐだけで、人々は異形の人種が生きているのだと誤って認識してしまう。異文化間では「中国人は拝金主義だ」だの「ロシア人は好色で野蛮だ」といったように、人種で一括りにして語りたがるくせがある。

だから、実際に現地に行ってみると違ったことが多くて「百聞は一見に如かず」という常識的な箴言も導き出されるのだ。そういう次第で、ピッコロは日本人からしたら、たとえば「ロシア人」だと考えてもらって構わないだろう。

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それでは、悟空は何故、彼らと戦うのか、そして、戦うと表現されるのか。それは、異なった文化を持つが故の文化間衝突が必然であることを示しているのだと思う。だから、彼らの大部分は当初、「敵」として現れる。

だが、やがて悟空は彼らを手なずけてしまう。敵が味方になったとは即ち、異文化を吸収して、彼らの立場に寄り添って思考が出来るようになったということを意味する。だから、悟空は「成長」という過程を経て強くなっていくし、味方が増えていくのだ。彼は異文化を衝突(戦闘)の内に克服し、異文化から「是認」される普遍性を身に付けていく。

だが、彼は成長するのに老人には決してならない(ドラゴンボールZTではシェンロンによって、子供の姿に変えられてしまったし、子供の姿のままシェンロンに天空世界へ拉致されて最終話を迎える)。何故なら、老人は頑迷になりがちだからだ。それは、生物学の猿などを使った実験でも証明されている通りで、行動が保守的になる。

老いた人は、従来と異なった発想が困難になりやすいという意味に於いて、「世界を知り尽くす」という悟空の志とは無縁である。そのため、悟空は孫を迎えても子供の姿のままなのだと推察する。

 

必殺技「元気玉」というワールド・デモクラシー

とはいえ、彼が世界平和を唱えて「非戦・協調」のみを説く、典型的なヒューマニストではないことは、彼が作中で何度も敵を殺害していることが証明している。

彼は、世界を知るための旅に出る内、「討ち滅ぼさなければならない、本当の悪」という存在(たとえば、セルやフリーザなど)をも発見する。そうした存在は滅ぼさなければならない悪なのであって、彼は全力で彼らを討ち滅ぼす。彼は異文化や異なった環境の他者を知ることを専らとする流浪の民でありつつも、世界に正義を齎す使徒としての役割も持っているのであった。

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*「元気玉」なうの悟空。顔つきが使命感に満ちた政治家だ。

そして、それが世界の人々の普遍化可能性に叶う正義であって、決して彼のエゴではないということは、悟空の必殺技の「元気玉」が、世界の人々の元気(支持)を受けて初めて発動することが出来るということ、ドラゴンボールGT最終話のナレーション:「強くて、優しくて、そんな悟空がみんなだーい好き!」にも表れている。

とりわけ、孫悟空の必殺技が元気玉であるということは、世界の民意を受けなければならないという意味に於いて、悟空が専制と無縁であり、決して人々が思うところの正しさから逸脱することが出来ないということを示している。

しかも、それは偏りの無い「世界の倫理」だ。世界中の人々を説得して元気を集めなければ「敵」を倒せない悟空は、世界の倫理を実現する(世界の人々から「是認」を受けている)必要がある。そして、世界が是認する正しさをひたすらに歩む悟空だからこそ、「みんなだーい好き」だったのだ。

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グローバル・デモクラシーで宿敵を倒そうと世界の「生きているすべてのみんな」に「投票行動(手を挙げて元気を分ける)」を呼び掛ける悟空。

ドラゴンボール孫悟空というキャラクターの魅力は、世界70億人から愛されるという途方もない設定にある。そして、ドラゴンボールはその道筋を「大河的浪漫」として描いている。それは一種、「半沢直樹」や弘兼憲史先生著「島耕作」とも通じるところがある。悪を潰して新しき正義を拓いていくからだ。

それらについては、また私見を書いてみたい。尚、余談だが、弘兼先生は私の大学・学部の直系の先輩なので、私の島耕作も先生と同じ学部を卒業しているから私のOBだ。そういう訳で、先生にも島耕作にも昔から愛着を持って接してきた積もりである。

 

悟空から学ぶことは何だろう

悟空は、失われた世界を探し求めるため、全てを賭けて世界へ向かった。そうして、世界で彼が戦う(異文化との文化的摩擦を繰り返す)中で、彼は異文化を吸収し、同じ地平を切り開いていった。だが、そうした旅路の中で、世界の倫理に違背する「絶対悪」を幾度となく見つけてしまった。

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だから、彼はそうした悪を殺すため、政策を立案し、実行する政治家にもなった。そして、彼が苦悩の末に考案した社会問題解決の方法は、「元気玉」という世界史上初めての全世界投票(ワールド・デモクラシー)だった訳だ。

それが、ドラゴンボールという物語の顛末だ。

我々は彼から大いに学ぶことが出来るのではないだろうか。即ち、自らの置かれた環境を超えて、他の人のことを知ることが出来るように、衝突を繰り返しつつも世界(世俗)へ繰り出すということ、そして、彼らのために考えて行動するということだ。

それが、「出アフリカ前」の争わず、慈しみ合っていたあの頃へ社会を近付けていく方法だ。そして、それが世界をより良くするということでもある。

 

私は、日本が中国をいたく誤解していると思って中国を知りにやってきた。その中でも、中国の奥深いディープなところを知りたい。それが表面だけではない、「中国」の本質だと思うからだ。

だが、私はまだ孫悟空のように「政策」として何を実現すればいいのか、それは分かっていない。何が悪で何が善なのか、それがまだ分かっていないのだ。本当に知恵が浅いと反省している。だから、私はもっともっと色々な事物に触れなければならないのだと思う。今日も明日も明後日も、人民の胸の中に飛び込んでいくつもりだ。

そういった訳で私は悟空を人生の先輩として、志ある立派な男として今後とも尊敬したい。心が折れそうになったら、ドラゴンボールを見て元気を出そうと思う。