イロマチディープ・チャイナ

裏風俗、心霊スポット、憩いのバーなど、中国のディープスポットをご紹介。中国の釣り情報やコラムも書きます。

「コモディティー娼婦の二重苦」売春婦養成学校設立の提言

以前、アップした記事に関連して思ったことを書く。

この記事で紹介した置屋は「底辺風俗」であり、本稿はそこで働く嬢についての論考だ。日本にも底辺風俗は多い。日本も含めた底辺風俗一般についての話で、どうすべきなのかまで踏み込んでみたい。

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 この置屋は普段、鍵が閉まっている。お嬢たちは鍵が閉められた店内から外の世界をいつもぼんやり眺めている。たまに客が立ち止まる。そうして、オーナーが店の鍵を開けてようやく、店内のお嬢と外界はリンクする。

客が来なければお嬢は外の空気すら吸えない。そんなお嬢達はショーケースの中に陳列される商品のように「弱い」何かであるように思った。とはいえ、鎖にでも繋がれて人身の自由が拘束されているという訳でもないし、退職して移動したければどこへでも行くことが出来る。それでも何か違和感を覚えるのだ。

 

買われることと嬢の個性

意図せずしてショーケースを模したこの置屋には、

「お客様は神様=能動の主権者」

「娼婦達は商品=受動の奴婢」

という構図がありありと示されているように感じる。

とはいえ、そんなことはどこの世界でもありふれた陳腐なことだ。客商売が客ありきなのは当たり前で、どこへいっても基本的には客が決定権を握っていて強い。

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ただ、風俗産業が他の産業と少し異なるのは「興奮と快楽」というサービスの提供を生業とするため、「サービスの種類や技量」のみならず「誰がするか(娼婦の容色)」という点にとりわけ重点が置かれていることだろうか。客は娼婦の「貞操の価格」を見極め、その価格が許容の範疇だった時に商談は成立する。

それが少し悲しいのは、「貞操」は人間の尊厳に関わる重大事案であるとみなされていて、それが量り売りされていることだ。そうして、人間の尊厳に関わる貞操を切り売りしていると思われる仕事だからこそ、「カネでモノやサービスを交換する」という認識をされる一般の産業と異なり、「カネで人格を買う」汚れた行為だとみなされることがままあるのだと思う。

そういった見方は多くの国々で共有され、法律にまで採用されている。私が暮らしている中国でもそれは例外ではない。むしろ、社会主義を採用する中国はガッチガチのアンチ売春国家のはずだ。

とはいえ、「カネで人格を買われる」娼婦の中には、持ち前の美貌と性奉仕の技術力とで「能動的」に客の下半身をガッシリ掴んでキャッシュを手に入れる者もいる。こういう「特定」のお嬢の下へ足繁く通い、散財する客は、お嬢の個性を見ている。代替可能性が低く、価値があると思うからこそ、「あのお嬢」を引き続き愛用するのだ。

そこには、依然として「客と娼婦の力関係の非対称性」が残存してはいるが、娼婦は「娼婦」とカテゴライズされる所の職業集団から離れ、「あの店のサービス上手の88番」とか「ロリ顔の花子ちゃん」「巨乳のヤンちゃん」などと「特定的」に認識されるようになる。そうして、彼女達の個性は一定程度、承認されている。外見にしろ、中身にしろ、彼女達は価値を認められたのだ。そうして、彼女達はよく稼ぐ。もはや弱いものだとはみなせない。「高級娼婦(高付加価値風俗嬢)」化した彼女たちは、風俗業界での成功者と言ってもいいだろう。

だが、一方では、外見や中身、サービス技術について(風俗嬢として表出する全て)の承認を殆ど一切与えられないような娼婦もいる。何故なら、彼女にはセックスが出来る以外には価値がないからだ。セックスが出来る娼婦はゴマンといるため、娼婦の中では無個性で埋もれてしまっているのだ。

本稿では、そうした代替可能な娼婦を「コモディティー娼婦」と名付けることにしたい。ありふれていて無個性的で、生産性に乏しい娼婦のことだ。

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*芸を磨く娼婦。遊郭は嬢の個性を強化した。彼女たちの「御稽古」と芸の披露は、不自由な彼女たちの唯一の自己表現だった。彼女たちの調べに耳を傾けてみたかった。

 

価値のない「コモディティー娼婦」

私が見た置屋の女は、端的に言って、価値のない娼婦だ。価値を覚えることが出来ない娼婦だ。容色は乏しく、ただれた雰囲気を放ちつつ、けだるげにゴミがついた頭髪をかきあげる彼女達。華やいだ季節も既に終わっている。サービスをしようと意思する気力すらなく、性技術の巧みさで他と差異化することも出来ない。典型的な「コモディティー娼婦」だ。

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*拾い画。決めつけて申し訳ないが、「コモディティー娼婦」の可能性が高い。

本当に申し訳ないが、私はその置屋の女性達の何れにも欲情することが出来なかった。私以外の人々があの置屋の前を通っても、100人中99人がこう答えるのではないだろうか。

「こんな不細工は嫌だ」「こんなおばさんは嫌だ」

ただ、100人中1人はこう言うだろう。

「こんなんでもいいよ、”いま”シタイから」

そうして、その100人中の1人を相手に商売しているのが、あの置屋なのだと私は思う。

彼女達は、毎日をあの小さな置屋の中で、誰かの激しい性欲がポトリと偶然に降りかかってきますようにと僥倖を祈っているのだ。

「私も誰でもいい、相手も誰とシタイとは思わなくていい。ただ、盛った男がシタイタイミングで私の前を通りますように」

価値がないのだから、シタイと思うタイミングで偶然にイタサレル以外に彼女達が抱かれる理由はない。男は射精するアナを求めているだけだ。抱いているんじゃない、抱かれているんじゃない。ただ、女のアナにペニスを出し入れしているだけだ。

そうして、アナをレンタルさせてくれるどこにでもいる娼婦という扱いで扱われて終わる。それがこの店の娼婦の毎日だ。

 

彼女たちは悲しい「便座」だ

 別の例で言い換えてみよう。

突然だが、「私で排泄してください!」と泣きながらに懇願する便座があったら悲しくないだろうか?私は悲しい。何故、私はそういう便座が悲しいと思うのか。

それは、我々が排泄する時、最も重要なのは「タイミング」だからだ。便意をもよおした時にトイレがあればいい。一日の内、トイレにこもる時間は30分あれば長い方だ。だから、便座の質は最低限があれば我慢することが出来る。そうして、我々は便座の個性に概して関心がない。我々はどんな便座でも大概許すことが出来る。排便の最中、我々が考えるのは便座以外のことだ。用を足したいと思えば便座を考えるが、排便が可能になればたちまち便座のことすら忘れてしまう。

だのに、便座はこうも必死に懇願するのだ。便座の意識と我々の関心がまるで乖離している状況が切なくて心に響く。しかも、「この便座」のクオリティーが「アナがある」という最低限しか満たしていないことは言うまでもない。だから、誠実な人だったらきっと、こうも懇願する便座を見たら耐えがたくなってくるはずだ。「私は便座の存在の真摯さに応えることが出来ない」とため息をつくことだろう。

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この便座はこの置屋の娼婦だ。わざわざここに排便しようとは誰も思わない。彼女達が「用を足される」のはたまたまの気まぐれだ。タイミングにそぐった時しか使われないのに、彼女達の個性は一顧だにされないのに、こうも必死に生きている。だから、とても悲しい。彼女達は日々の中で生きている実感があるのだろうか。

人間として扱われていないという状況が、人間の精神に与える影響は甚大だ。こういったシチュエーションについての統計が存在すると思うし、それについてマイナスの影響があることを確信する。底辺の風俗嬢は、いつでも悲惨だ。「股を開くこと」以外に価値を見出されていないのだから、収入だってそうそう高くない。価値が内在していないから生産性も低く、1セックスあたりの単価とリピート率も低くなってしまうのだ。それが「コモディティー娼婦」と私が名付けるところの売春婦たちだ。

こうして「コモディティー娼婦」はその性質がコモディティーたるが故に、人間的承認を受ける機会が乏しくなり、収入も比較的少ないままの傾向にある。

だから、「コモディティー娼婦」を高付加価値化し、「高級娼婦」へレベルを上げるインフラがあれば助けになるのではないか。

 

 

高級娼婦への道「売春婦養成学校」設立

以上の話を踏まえ、売春婦養成学校を設立し、「高級娼婦化」の機会創出を図ってはどうかと考える。売春婦養成学校とは、風俗嬢のスキルアップを図る職業訓練校だ。職業専門校が存在すると、どういった効果が期待出来るだろうか?

 

①:風俗嬢のサービスのレベルが底上げされ、顧客満足度が総じて高まり、風俗産業のリピーターが増え、産業規模が拡大する。高付加価値を付けたサービスを洗練された形で行うことが出来るようになり、風俗嬢全体の収入が向上する

②:風俗の職業専門校へ通うことによって、風俗業における自己への教育投資が容易になり、スキルアップの道が広がる。そうして、風俗嬢達は風俗サービスに個性を出すことが出来るようになる。そうして、風俗嬢は客からの人間的承認を受けやすくなる

③:職業専門校を設立し、世論を喚起することによって、風俗嬢の社会的地位向上を図ることが出来る。

④:性病等のリスク管理について体系的な知識を学び、自己の身体を保護することが確実に出来るようになる。

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だが、一つだけ負の影響が考えられる。

それは長期スパンにおいて、風俗産業が高度化し、サービス産業として一般化(人々の意識の内にある差別感情を取り除く)することにより、恥を忍んで股を開くことへの「価値(対価)」が乏しくなり、倫理観や道徳感情に基づいていた「貞操の価格カルテルが崩壊し、手銭を稼ぎにくくなることだ。それは「生活型売春」と呼ばれる経済的貧困を苦にする風俗嬢にとっては痛手だろう。

だから、中国などというまだまだ貧しい地域が多い国では、風俗産業の高度化と一般化を図る職業専門校の設立は時期尚早と言うべきだ(とはいえ、設立が許可されるようなことは万が一にもあるまいが)。

だが、先進国とも呼ばれるような地域において、風俗産業の高度化やスキルアップを図る教育施設があるのはメリットが多いと思う。そして、それは風俗嬢の底辺に位置する女性達にとって、最もメリットが大きいはずだ。

何故なら、彼女達は外見も中身も優れず、「股を開くこと」にのみ価値があって付加価値が乏しい状況(必然的に収入も乏しい)にあるが、教育訓練校が存在することによって、サービス技術や接客のイロハを学び、付加価値を付けることが出来るようになるからだ。そうして生産性が高まり、収入が増加するのみならず、彼女の磨いた技やサービスは、彼女の個性となって客からの承認を得やすくなるだろう。

売れっ子の若い風俗嬢でも、年齢経過と共に容色が衰えてくる。だから、さらにサービス技術を磨くインフラとして、教育機関があった方がメリットになるはずだ。

 

これからの風俗を考えよう

 風俗の職業専門校を設立し、風俗嬢達がより高付加価値化されれば、「コモディティー娼婦」は減っていくことになるだろう。誰がどのように運営するのかという論点はあるが、そういう施設が現れるような精神的土壌を作っておくべきだと思う。

風俗は絶対に無くならない。その中で、どうしたら「いい風俗産業」を作っていくことが出来るのかについて議論すべきだ。無くならない風俗にいつまでもタテマエで相対するなら、風俗産業が生み出す悲しさはいつまで経っても無くならない。

風俗産業は世界に必要だ、というより絶対に無くすことは出来ない。水を飲むな、飯を食べるなと言われても土台無理な話と同じだからだ。どんなに風俗産業を国禁とする国家や地域でも、風俗産業を徹底的に粛清することが出来た歴史は古今東西存在しない。摘発が厳しくなったとしても、ちょっとばかり裏の方に隠れるだけだ。

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習近平政権の下、数十万の娼婦が摘発された事案などを例にとってみれば分かるように、改革開放以来、最大の摘発運動が展開される中国でも、「風俗嬢たちは、社会的に地位が弱く、貧しいかわいそうな人々」という人民の根底に通ず同情心と「政府と老百姓(市井の人々)の考えは違う」という反骨心とに支えられ、風俗産業は復活して盛んに営業している。

机上の空論で価値観がゴリゴリになったインテリ階級ならいざ知らず、とりわけ風俗店がひしめく地域の市井の人々は、それを喜んでいる。娼婦のアナを目当てに客が遠方から訪れ、彼らが落としたカネを彼女達が地元で消費し、地域経済に好影響をもたらすからだ。娼婦の隣で飲食店や板金工を営んでいても、市井の人々は何ら意に介さない。「風俗があるなんて当たり前のことじゃないか」と彼らは考えるのである。

さて、そういった当たり前の風俗だが、オランダ等の売春先進国を除けば、「職業専門校」が存在しないのは不思議なことだ。ここまで風俗産業の規模が大きいのだから、「コピーライティング教室」と同様に風俗の職業専門校があったっていいだろうに。風俗業を直感的に嫌悪する国民感情がそれを阻害しているだろうことは明白だ。

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*売春が合法のオランダ飾り窓。彼女たちも学校で性技術を学んだのだろうか?

 

ところで、私は新宿の歌舞伎町で「店の中でスルんじゃないとイケない。風俗の仕事が好きだから、これからも続けていきたい」という若い女性に会ったことがある。

彼女はまるで金銭に困っていないが、遊びでバイトを始めたヘルス店で風俗嬢の適性に目覚め、本業を止めてソープ店で働くことを決意したところだった。

「好きなことを仕事にしたい」から風俗産業に進んだ彼女は、みじんも「かわいそう」ではない。むしろ、新たな領域へチャレンジする姿勢がかっこいいくらいだ。時代は変わりつつあるなと感じた。

日本では、風俗について人々の抵抗意識がなくなりつつある。AVにも、素人女性やついさっきまで売れていた芸能人モデルが転向したりする話も最近はよく聞く。とりわけ、先進国ではこのように多様な価値観が生まれているのだ。

社会的に風俗産業を広く認める気運は高まっているのではないか。こういった状況下で、風俗業の職業訓練校の設立は、一考するに値する話ではあると思う。